目を閉じて思い出すのは、夏に咲くひまわりと、秋に見上げた真っ赤な紅葉。





「レーン」

 自分を呼ぶ、聞きなれた甲高い声に、五月蝿いなと思いつつも覚醒する。もやがかかったようにはっきりしない頭を無理矢理起こすと高熱を出している時みたいにガンガンした。「めーちゃんが今から来るって言ってるんだけど」、がちゃりとレンの部屋の扉を開けたリンは、既に起き上がっていたレンに驚いた。レンは朝が苦手だ。

「・・・めーちゃん?なんで?」
「んー、わかんない。カイト兄も来るって言ってたし、もしかしたらミク姉も来るのかも。あれじゃない?ほら、前にレンが読みたいって言ってた本あったじゃん」

 レンはしばらく顔をしかめ、それから思い出したように「ああそういえば」と言った。

「あたしマスターに呼ばれてるから先行くね」

 リンは綺麗なソプラノでそう言うと、部屋を出て行った。


 
 また、朝が来た。

 どうしたって、夜は明けるけど。



 レンはゆっくりと体を起こすと、顔を洗うために洗面所へと向かう。途中でリビングを覗くと、テーブルの上にはリンが作ったらしい朝食が置かれていた。何だかメモ書きのようなものも添えてある。リンはいつもそうだった。何でもすぐに手紙を添える。ああいうのはいらないとレンが言うと、リンは怒ったように口を膨らませて「レン最近冷たくなったよね」と拗ねた。
 鏡に映る、リンによく似た自分を見て、哂う。あー、とやる気の無い声を吐き出して、それが耳に届いて不快に思う。



 ボーカロイドは成長しないんじゃないの、とレンはマスターに問うた。あれは確か、おそろしくのどかな日曜日の午後だった。突然話しかけたレンに驚いたらしいマスターは何度か目を瞬いてから、ゆっくり笑った、「レンが望めば成長くらいするんじゃない?」マスターは楽しそうだった。
 生まれた時、彼らは同じだった。男女の差はあろうとも、多分、あれはほとんど同じだった。レンの方が少しくぐもった声質だったけれど、歌える音域だって同じだったし、得意とするジャンルだって同じだった。レンは、ミクが面白そうに見ていたのを今でも覚えている。「リンとレンって、同じなんだね」花そっくりの笑顔と、リンよりも芯のあるソプラノで、ミクが歌う様に言った。



 ぱしゃん、顔を洗おうと手ですくった水を鏡にぶちまけると、鏡の中のレンが歪んだ。



「レンー?いるー?」

 玄関先から聞こえた声に、レンは、いるよ、と大きく返事をした。

「え、あの本届けにきてくれたんじゃないの?」

 玄関扉を開けると、そこには手ぶらでやってきたメイコとカイトがいた。リンの予想は外れたようで、ミクの姿は確認できない。

「本?あー、あー忘れてたわ、今度持ってくる」
「・・・めーちゃん、俺その台詞多分もう十回くらい聞いた気がする」
「気のせいよ気のせい!ところで、ちょっとお邪魔してもいい?話があるのよ。ほんとはリンにも聞いてもらう予定だったんだけどねー、マスターに呼ばれたんだったら仕方ない」

 レンが許可する前に既にメイコは靴を脱いでスタスタと部屋の中へ消えてしまう。カイトが苦笑しながらごめんねと謝った。揺れる青い髪を視界の端で捉えながら、「カイト兄が謝ることないじゃん」と呟くと、そうなんだけど癖っていうか、とカイトが困ったように言った。レンはため息をつきながらカイトを招き入れる。我が物顔でさっさと行ってしまったメイコとは対照的に、律儀にお邪魔しますと言うとカイトはやっと部屋へ足を踏み入れた。
 リビングに入ると既にメイコは勝手知ったるといった風で寛いでいた。四人掛けの小さなテーブルには冷蔵庫の中にあったはずの麦茶とゼリーが三人分用意されている。

「めーちゃん、そのゼリー、リンがマスターにもらったやつなんだけど」
「でも五個入りってことは私たち皆の分ってことなんじゃない?だいじょーぶだいじょーぶ。ほら、レンも食べるでしょ?」

 ぺり、とメイコがゼリーを開けると、仄かに甘い香が漂った。桃味らしい。

「ミクは?」
「アルバム出るでしょ、だから忙しいみたい」

 ふうん、とレンは面白くなさそうに呟く。
 メイコもカイトもレンやリンに比べると随分と大人だった。いつからマスターの元にいるのか尋ねても曖昧にごまかされるだけで結局レンは詳しいことを知らない。ミクよりも先に生まれてミクよりも早く歌っていたはずなのに、世間に広く知られたのはミクが先だった。

 ミクのソプラノは綺麗だ。
 リンの声よりも、もっと芯があってもっと通る。頭のてっぺんから爪先まで、一気に駆け抜けるような声で歌うかと思いきや、ゆっくりと体に染み渡るような声の時もある。一緒に歌うとすごく気持ちがよくて、マスターや世間の人々が、彼女を特別視する理由もわからなくはない。

「で、話ってなに?」

 リンとマスターの話が終われば、レンは新しい曲の収録をしなければならない。リンとの曲だから、彼女の都合も合う日でなければならないのだ。今日を逃すとまた三日後になってしまうから、なるべく今日中にどうにかしてしまいたくて、レンはつい急くような口調になってしまった。



「ああそうそう、新しい子が来るって」



 メイコはレンの口調なんて特に気にした風でもなく、さらりとそんなことを言った。べしゃり、口に運ぼうと木製のスプーンで救い上げたゼリーが見事に落下する。カイトが慌てたように手を出したけれど間に合わなかった。

「・・・は?」
「三番目」

 ミクが一番目だと考えて、リンレンが二番目、つまりその次という意味らしい。メイコとカイトはいつも自分たちを数に入れない。

「・・・五番目だろ」

 またメイコは曖昧に笑った。










 新しい子が来るって、とレンが伝えると、リンは少しだけ驚いた顔をして、それから嬉しそうに笑った。また兄弟が増えるんだねえ、と無邪気に笑う。
 新曲の収録を終えて休憩していたら、マスターがまた新譜を持ってやってきた。「今日はもうお終い。明後日、これちょっとやってみようか」そう言って渡された楽譜は、リンとレンで異なるものだった。部屋に帰ってなんとなくすぐにそれを歌ってみたい気分になって、レンが楽譜とにらめっこをしていると、冷たく冷されたレモネードを持ってリンがやってきた。はい、と差し出されてレンはそれを有難く頂戴する。ストローで一気に吸い込むと、レモンの酸味とはちみつの味がした。

 人により近づくためにと彼らにも感情が備わっている。感情が備わっているということはつまり誰かが誰かを想う気持ちだってあるわけで。目の前で笑うリンを見て、レンは泣きそうになった。



 関係が崩れてしまうのが怖かった。





「リン」

 ベッドに腰掛けて新譜を暗記しているリンに声をかけると、すぐに顔をあげた。壁にもたれかかって同じく暗譜を試みるレンの側に、するりと寄って来ると、リンは隣に腰を降ろす。まとわりつくような熱気に包まれているけれど、どうしても冷房をつける気にはなれなくて、小さな窓から申し訳程度に入ってくる風だけが頼りだ。さらりと二人の前髪を攫っていく。

 唐突に、リンの歌が欲しくなった。

「リン、楽譜とりかえっこしよう」

 レンの思いつきに、リンも頷いて楽譜を手渡す。カイト程低くは無いにしても、はやりレンの楽譜はリンのそれと比べて音域が低い。アルトパートって感じだね、リンが口ずさんだ。

 ずっとリンと同じ音域だった。
 どちらかがソプラノを担当して、どちらかがアルトを担当して。だけど今はレンがアルトを歌うことがほとんどだった。ソプラノが歌えないわけではないけれど、やはり男の子だからなのだろうか。最初にアルトが良いと申し出たのはレン自身だった。リンが驚いて、マスターが悲しそうな顔をしていたのを今でも覚えている。



 ずっと自分のボーイソプラノの声が嫌いだった。

 カイトのような、低くて安心できる声が欲しかった。大人の声が、欲しかった。
 そういう声を望んでいた。
 ボーイソプラノっていうんだっけ、レンみたいな声のこと。レンの声、好きよ。
 あの人はそう言ってレンの頭を撫でた。



「レン?」

 一向に歌わないレンを不思議に思ったのか、リンはレンの顔を覗き込んだ。ごめんごめんと苦笑しながらレンは歌い出す。

 綺麗なソプラノだった。

 レンが歌うソプラノは、リンのものとは少し違う。リンの声もミクの声とは違ってまだ未完成な音色だけれど、最終的にはミクのように安定した声になるんだろうな、とレンは思う。それでも自分の声はどこに行き着くのかわからなかった。
 レンがアルトが良いと言ったのは、自分の声が不安だったからだ。少しずつリンよりも背が高くなってきて、声の音域も下に広がり始めていた。幸い上が出なくなることはなかったけれど、それでも確実にやってきた変化に戸惑った。だから、マスターに問うたのだ、成長しないんじゃないの、と。己が望めば成長するとマスターは言った。つまりこの変化は自分が望んだものだということで。



 まるで、リンから離れていくように。



「レン、どうしたの」

 リンが心配そうに尋ねてくる。何でもないと笑っても、きっとリンにはそんな戯言は通用しない。今にも泣きそうな顔をしながらリンはレンの首に腕を回して抱きついた。その背に、レンもそっと手を添える。
 レンにとってリンは間違いなく必要不可欠の存在だった。自分と同じ存在が側にいることは想像以上にレンを安心させた。確認してみたわけではないけれど、リンだってそれは同じはずだ。

 リンとレンは同じだった。

 だけど、レンがどうしようもなく自分を嫌悪しているのもまた事実で。

 もっと大きくなりたかったし、もっと大人になりたかった。リンとレンの声は可愛いねと言われると、嬉しいのか悲しいのかわからなかった。
 大人になれば、あの人と同じ目線になれると思っていた。



「レン」



 何度も何度もリンが呼ぶ。レンは黙ってリンの背を赤子をあやすように優しく撫でる。





「レン、置いてっちゃ、やだよ」










「最近レンもまたソプラノ歌うようになったんだね。うん、やっぱりいいね、レンのソプラノ」

 珍しくスタジオで練習していたメイコが、リンとレンの新曲を興味深そうに聞いていた。ごちゃごちゃと乱雑に置かれた段ボールに腰掛けて、ガラス越しに彼らを眺めている。隣にはやはりというかなんというか、とにかくカイトも居て、こちらもまたにこにこと満足そうな顔で笑っている。

「別に今までだってソプラノを拒否してたわけじゃないけど」
「そうなの?てっきり嫌がってるのかと」

 そう言ったのは、音が上手く拾えないからと壊れていたマイクを取替えに行っていたミクだ。スタジオの扉を開けて顔をしかめている。「そんなに納得いかない?」レンは呆れ顔で言う。

「違うよ、これはスタジオの暑さに驚いただけ」
「ああ、クーラー入れてないから」
「いつも思うんだけどレンって体感おかしいと思う!なんでそんな涼しげな顔してるのかわかんない!カイト兄とめーちゃんもそう思わない!?」
「思うわよ、だからこうして私たちはガラス越なの。こっちはクーラーガンガンだから。地球に優しくない十八度設定」
「さむっ!」
「カイトがマフラーが暑いって言うから」

 なんて迷惑なファッション!ミクが驚いたように言う。「俺だって好きでこんなん巻いてるんじゃない!」、カイトのその心外だと言わんばかりの返答に、レンがじゃあ寄越せと言えばそれは無理ですごめんなさいと即答。メイコが笑った。

「っていうかリンは暑くないの?」
「うん、別に」

 さすが双子、とミクは感心したように呟く。

「そういえば、じゃあなんでレンはアルトばっか歌ってたの?」

 ミクの問いに、レンは「理由なんてないよ」と答えた。リンだけが少し微妙な表情をしていたけれど、すぐに笑顔になった。
 少し休憩しようとレンが言うとミクとリンも嬉しそうに、賛成!と手を挙げた。待ってましたとばかりにミクはメイコとカイトのいる隣のスペースへと駆け込んでいく。リンはアイスでも食べようよ、と部屋を出て行った。昨日買った、苺とマンゴーのアイスを取りに部屋に戻ったらしい。

 小さな窓から拭きぬける風は、昨日よりも強くて涼しい。窓際に寄って風を真正面から受けていると、何だか全てがどうでもよくなってきた。



「レン」



 呼ばれても振り返らない。ああいう甘いけれど苦味の利いた声でレンを呼ぶのは一人しかいないからだ。

「・・・めーちゃん、暑いんじゃないの?」

 気づけばレンの隣まで来ていたらしいメイコは、同じように風に当たりながら目を細めて空を見上げている。

「暑いけど風に当たるのは気持ち良いもんね」

 だろ、レンが得意げに言えば、生意気言ってんじゃないわよー、とメイコはレンの頭を小突いた。

「で?どうしてアルトばっか歌ってたの?」

 メイコはどうやら先ほどの「理由なんてないよ」という言葉に納得していないらしい。お姉さんはさすがだなあとレンが苦笑していると、メイコは眉を顰めた。

「ごまかす気?」
「ごまかすつもりなんてないけど、でも本当のことは教えなーい」

 メイコは驚いた様に目を見開いて、びっくりしながら吹き出した。あははといつもよりも甲高い笑い声が響く。「レンったら反抗期?」「どっちかって言うとお姉ちゃん離れかな」さらに驚いて固まったままのメイコを残して、レンは部屋を出て行こうとした。

「レン!」

 扉を閉める直前に、メイコが叫んだ。



「レンの声、好きよ。アルトも、ソプラノも」





「リン」
 廊下に出ると、扉のすぐ横にリンが立っていた。レンが出てきたことにびくりと肩を震わせたけれど、レンだと確認すると安心したように笑って見せた。

「何つったってんの、入ればいいのに」

 リンは困ったように視線を足元へと落とした。こっち向いてよとレンが言っても中々顔をあげてくれない。
 双子は、時して厄介だなと思う。



 こんなにも、自分の思いが通じてしまうから。



 行き場の無くした手が、スカートの裾を握っている。レンはそのリンの手を上から包み込むようにして重ねる。少しだけ、スカートを握りこむリンの手の力が緩んだような気がした。その一瞬の隙をついて手を繋ぐ。



「置いてなんか行かないよ」



 リンは最後まで顔をあげなかった。
 頭を抱え込むようにしてリンの背中に腕を回す。リンは持ってきたアイスを箱ごと床に落下させると、レンの何倍も強い力でレン自身に抱きついた。



「ちょっとそこの双子―、いちゃつくのは構わないからアイスだけ寄越しなさいー」

 メイコの声で、リンが慌てたようにレンから離れた。ミクとカイトもいつのまにやら廊下から出てきたようで、二人の様子を見てくすくすと笑っている。レンは床に放置されたままの箱アイスを右手で掴むと左手でリンの腕を掴み、部屋の中へと引っ込んだ。

「あ、ちょっと!ここで食べるの?すぐ溶けちゃうじゃない!」
「えー、でもめーちゃん、あっちで食べたら凍えちゃうよ、十八度でアイス食べても平気なのって、わけわかんないマフラーつけてるカイト兄くらいだっつの」
「あはは言えてる」
「わけわかんない言うな!ミクも賛同しない!」

 リンも食べる?レンがそう言って差し出したアイスを、リンはゆっくりと受け取った。



The party is over

神様神様、応答願います。




   
2009年しいちゃん誕合同本収録。世界にひとつだけの本シリーズ(笑)

10年01月19日 HP収録

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